● 1990年 ●
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■青函トンネル採掘者の苦労を称える五百羅漢を制作■





 自分の顔と同じ表情が必ずあるといわれる"五百羅漢"。世界最長の青函トンネル採掘者の苦労をねぎらい、偉業を称えるため「このレリーフに名前を刻んで、青函トンネル海底駅に飾りませんか」と呼びかけ、吉岡海底駅へ500枚を取り付けました。



 前年の1989年、JR北海道が「開通記念」「旅の想い出に」と、メモリアルボードキャンペーンとして陶芸手形・寄せ書きなど一万枚の取り付けを企画しました。そこで本間は「企画としては素晴らしいが、完成までに命を落とした人も多くいると聞いている。採掘者への感謝の気持ちを表したい」として、レリーフ五百枚のスペースをJR北海道より買取り、ここへ取り付けする五百羅漢の賛同者を1枚一万円にて公募したものです。




 陶板は、トンネルを採掘する際に出た土に多治見産の陶土を併せたもので、中央にはお地蔵様の顔に似せた表情(さまざまな表情を作るため、リアルにならないよう簡略化したそうです)を彫り、その下に申込者の名前を刻みました。歌舞伎界の片岡我当さんと知合いだったことから、歌舞伎界・芸能界の皆様のご協力も得て、片岡仁左衛門さん、松本幸四郎さん、仲代達矢さん、松坂慶子さん、千代の富士などをはじめ各著名人や、道内外の一般市民・道内各界の有志の名も増えて、その後完成した五百羅漢は青函トンネル吉岡海底駅へ取り付けられました。






● 1991年 ●
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■青函トンネルの繁栄と安全を願い、「ニシンの群来」のプレートを制作■





 JRがこの年"青函トンネル開業3周年"を記念する企画を進めていたのに合わせて、暗く殺風景なトンネル内の通路に、青函トンネルの繁栄と元気に戻ってくる姿に安全の願いを込めたニシンのプレートを飾りました。



ニシンのプレートと共に展示された風景画の一部です。



 ニシンの絵だけでは単調になるため、自主制作による同内各地の風景画十数枚も組み込みました。設置場所は吉岡海底駅の上下線を結ぶ通路で、陶板は1枚が縦20cm、横25cm余り。完成すると長さ450m、高さ2mに及ぶ計画で、新聞ではこの時第一弾とし1400枚のニシンのプレートが取り付けられたとなっています。





ニシンのプレートで、下から順に壁を埋めていきました。



 風景画は故郷の余市や小樽の港など十点で、ニシンのプレートはオーナーを一般から募集して申込者の名前も刻みました。









● 1992年 ●
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■ 千歳飛行場(旧千歳空港)着陸一号機「北海一号」の完全復元に挑戦 ■





「空のまち・ちとせ」の礎となった人々の思いと、大空の歴史を後世まで伝えたい―


(※1992年に執筆した「北海一号の復元に寄せて」もぜひご覧ください)





 1988年に民間機専用の北の玄関口として開港した新千歳空港は、その後利用者が増え続け現在では国内屈指の利用者数を誇っていますが、その新千歳空港の前身である千歳飛行場の第一歩となったのが、1926年10月21日に千歳村の村民達の手により完成した200mの滑走路でした。



 この滑走路は、当時「小樽新聞社社機・北海一号」の上空周回を受けて、「せっかくだから千歳に着陸をしてもらおう」と村民達が緊急会議を開き、小学生から男女青年団・在郷軍人など約400人が参加して、200mの滑走路を2日がかりで造り上げたものです。



 この逸話に本間は「当時の村民が一致団結して滑走路を造った大正版"村おこし"に感銘を覚えるし、感無量のものがある。当時の村民の気持ちと行動力が今の千歳の礎になっているのでは」として、「当時の気持ちを後世に伝えるためにも北海の復元を思い立った」としています。



  本間は青年期に東京・中島飛行場で幻の特攻機キ一一五"剣"(つるぎ)を整備した経験があり、今の私達の生活を切り拓いた先人達や、文明の力である飛行機や船に対しての思いを強く持っていました。



 復元にあたり「北海」の機種を調査したところ、海軍十〇式艦上偵察機を民間機に改造した三菱式R2・2であることがわかり、このR-22は全幅12.04m、全長7.925m、全高2.896mであることから、そのままの大きさで復元し、後に「エンジンをつけて飛ばしてみたい」と語っていました。




復元しお披露目した北海一号 1992年6月12日 朝日新聞より



 
 本間は三菱関係者や飛行場時代の仲間に問い合わせ、R-22の詳細な設計図を入手し、「機体は木造の上に布ばりしている。これらを含め、なんとか原寸大の完全復元を完成させたい」と語って1991年復元作業に着手しました。方法としては資料を集めミニチュアを製作、それをもとに知人である遠軽町の業者が原寸大にしました。 「北海一号機」の製造元であった三菱重化学工業株式会社の社長や幹部、科学技術庁航空宇宙科学研究所の所員らも完成した飛行機をみてあまりの精密さに驚き、その後発売された「みつびし・飛行機物語/アテネ書房」の中でもR-22の復元について触れられています。



 それから「北海第一号」は北海道空港情報サービス社が買い取り、"ちとせ大空の夢・アミュージアム"として翌年の1992年にオープンした新千歳空港ターミナルビル内に展示することになりました。大空に憧れた先人達の夢と飛行機の歴史を伝えるため、その後本間は世界の歴史的飛行機の模型も計8機制作し、これら8機も同ターミナルビル内にて公開されていましたが、現在では規模が縮小され設置スペースを取らないファンタジー系の小型機4点だけが残るのみとなっています。



 以下、原寸大〜2/3の大きさで製作・展示した飛行機模型のご紹介を致します。現在"ちとせ 大空の夢・アミュージアム"にてミニチュアに変更し展示されている機種がありますが、このミニチュアに関しては本間の製作したものではありませんのでご了承ください。















1992年製作 「北海一号機」
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※展示は終了しています。


 村民の手により造られた千歳飛行場に、1926年初めて降り立った小樽新聞(現在の北海道新聞)社の社機。幅12.04m、長さ7.925m、高さ2.896m




展示されていた北海一号機。奥はスピリット・オブ・セントルイス号です。





1994年製作 「ライトフライヤー一号」
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※展示は終了しています。


 アメリカのライト兄弟が、史上初のエンジン飛行に成功した飛行機。幅12m、高さ2.5m、長さ6.4m







1995年製作 「スピリット・オブ・セントルイス号」
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※展示は終了しています。


 リンドバーグが大西洋無着陸横断(ニューヨーク〜パリ間)に成功した飛行機。「翼よ、あれが巴里の火だ」という言葉はあまりにも有名です。幅14m、高さ2.6m、長さ9m







1995年製作 「アンリファルマン号」
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※展示は終了しています。


 1910年に国内ではじめて場周飛行した複葉機。徳川好敏大尉が陸軍の命令でフランスに派遣され、わずか二時間の訓練で万国飛行免許を取得し、同機を購入して帰国した後飛行しました。幅7m,高さ3.3m、長さ8m




羽が二重になっていることから複葉機と呼ばれています。







1996年製作 オットーリリエンタールのグライダー
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 航空の父といわれるドイツ人のオットーは、鳥の研究から航空知識を取得し、後にエンジン飛行機を研究したライト兄弟らに大きな影響を与えています。1891年に製作されたチョウをイメージさせる優美なこのグライダーは、実に二千回以上も飛行実験を重ねました。幅6m、高さ1.8m、長さ4.2m。現在も天井から吊り下げ展示されていて、下は横から見た写真です。




横から撮った写真です。現在も天井から吊り下げられています。







1996年製作 ヘンスン&ストリングフェローの空中蒸気車
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 1842年に、初めて蒸気動力によってプロペラを動かす設計で製作された飛行機。実際には地上を離れることはありませんでした。幅7m 、高さ3.6m、長さ4.8m。現在も展示中です。




30分ごとに汽笛がなったりキャラクターが登場するなど色々な仕掛けが施されました。







1996年製作 蒸気ヘリコプター「スチームエアライナー」
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 1863年にフランスのカブリエル・デ・ランデルによって設計されたヘリコプターの元祖で、空飛ぶ機械への憧れが古典的かつ優美に表われています。現在も展示中です。




1時間ごとにプロペラが回るようにしました。







1996年製作 ジョージ・ケイリーの「ヘリコプター」
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 イギリス人である彼は当初からすでに垂直離陸を考えており、鳥をデザインし設計された四つの回転する翼が現在のヘリコプターに繋がりました。現在も展示中です。




勇ましい鳥の顔のヘリコプター







1997年製作 レオナルド・ダ・ヴィンチの考案した飛行機試作品
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※本間の製作した模型の展示は終了していますが、同じレオナルド・ダ・ヴィンチの試作品が展示されていました。(2008年6月現在)



 プロペラの原型やパラシュートの原型、「羽ばたき機」など、空への憧れが流暢にデザインされたダ・ヴィンチによる試作品です。アメリカのスミソニア博物館やレオナルド・ダ・ヴィンチ博物館から資料を取り寄せました。(写真は当時のディスプレイの様子です)。















本間は原寸大〜2/3の模型を制作するにあたり、
試作品としてミニチュアも制作していて、
恵庭市内に1988年にオープンした仏像彫刻記念館
(後の本間コレクション)敷地内へ「北の翼の仲間達」棟を設置し、
ミニチュアはこちらの方へ展示をしていました。
(2004年に閉館に至っています)



「北の翼の仲間たち」では上記9種のほかに、
東京−札幌間を初めて定期旅客飛行した飛行機や、
本間が戦時中に整備を担当した幻の特攻機
「キ一一五・剣」の模型も展示されていました。





ミニチュアが完成した様子です。





● 1993年 ●
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■バングラディシュに「ホンマ・タケオ医療チーム」発足■
(文中の写真はサイクロンが襲った1991年当時のものです)



 この年バングラディシュの青年医師に贈った善意がもとで、伝染病などの治療を行なう「ホンマ・タケオ医療チーム」が発足しました。この話題は現地の新聞でも取り上げられ、当時、個人でバングラディシュの医療に対する寄付を行った初めての外国人であったため大きな反響を呼びました。本間は「まさか医療チームができるなんて」と驚きながら、今後も出来る範囲で支援を続けていきたいと話していました。



 
 医療チーム発足のきっかけとなったのはこの年の2年前の1991年のことです。バングラデシュを今世紀最大のサイクロンが襲い、二十万人が死亡する大災害が起きたことを受け、北大の留学生だった青年医師が義援募金を呼びかけて、これに応えて本間が援助を申し出たのがきっかけでした。




 
 その後一旦帰国した青年医師が再び札幌を訪れた際、個展を開催中だった本間のもとへお礼に訪れ、そこでバングラディシュで伝染病が発生し急きょ帰国する話を聞いて、再び援助を申し出たところ「善意を形に残したい」というという青年医師により「ホンマ・タケオ医療チーム」が結成され、低所得で病院にいけない患者への医療活動を展開しました。



 バングラディシュでは当時国民一人当たりの年間医療費はおよそ0.8ドル(100円)で、保険制度もなく医療費は全て個人負担でした。このため病院へ行けないなど劣悪な医療事情が続き、そんな状況下での寄付だっただけに青年医師は本間の善意を形に残したかったと語っています。その後も1994年に版画カレンダーの売上げを全額バングラディシュに寄付したり、救急車を贈るなど慈善活動を続け、バングラディシュからは北海道南西沖地震の際にお見舞いが届くなど両者のあいだで交流が続いていました。




■スペイン王立美術院から感謝状が届く■






 この年スペイン国立ロイヤルアカデミー・サン・カルロス王立美術院から、「会員がお世話になりました」と感謝状が届きました。本間がお世話をしたとされる同美術院の会員は、渡島管内八雲町にアトリエをもつスペインの四十代の画家で、三年前に来道し絵画活動を続けてきましたが思うように絵が売れず、スペインにも工場のある室蘭市内の新日鉄製作所に相談したところ、社内誌の表紙を描いていた本間を紹介されたそうです。


 本間は絵の販売手続きや生活の面倒をみたほか、懇親的に絵の指導などもし、その後一時帰国したスペインの画家が本間の善意を美術院に報告したころ、感銘を受けた院側より感謝状をいただきました。


 感謝状は、サン・カルロス王立美術院総裁の署名入りで「ご支援に心より感謝したい」「当王立美術院は、本間先生を日本を代表する芸術家として認定する」「スペインへの来訪を期待しています」などと記載されており、突然の感謝状に驚きを見せたものの、「自分ではあまり大したこともしていないが、王立美術院からのお礼は大変嬉しく光栄なこと」と話していました。